山姥なる化け物を退治した山姥切国広
九州日向住国広作
山姥切国広
重要文化財 九州日向住国広作 銘は「天正十八年庚寅弐月吉日 平顕長」
伊東家ゆかりの人物
日向国に生まれ、伊東家に仕える。伊東家ゆかりの人物の注文打ちが残されており、山伏修行時に鍛えたと銘がある、不動明王像と「武運長久」の文字、梵字を彫った「山伏国広」はこの時期の傑作である。伊東家を離れ諸国を巡り、足利学校にて鍛刀。領主の長尾顕長の求めに応じて打った、「山姥切国広」(長尾顕長が北条氏政から賜った相伝備前の長船長義(号:山姥切)の写し)がこの時期の傑作であり、また、同工の最高傑作の評が高い。 天正18年(1590年)信濃守受領。慶長4年(1599年)ころから京堀川に住む。弟子に、出羽大掾国路、国安、国弘、国貞等あり、堀川一派として大いに栄えた。俗に「堀川物」と呼ばれる。新刀の祖「埋忠明寿」と比肩する刀工である。
切付け名
堀川国広作の短刀。 山姥切国広、やまうばぎりくにひろ 銘は、表に「九州日向住国広作」、裏に「天正十八年庚寅弐月吉日 平顕長」とある。
足利城主長尾顕長(平顕長、長尾新五郎)の依頼を受け、顕長所有の備前長船長義の刀(北条氏康に贈られたという)を写して打ったものと言われる。
北条氏康が贈ったという長義の刀は、昔信濃戸隠山中の山姥なる化け物を退治したことから「山姥切」と号し、これに似せて打って欲しいとの依頼により国広作の山姥切が生まれたという。
なお長義作の刀は、銘に「本作長義、天正十八年庚寅五月三日、九州日向住国広銘打」との切付け名があり、現在徳川黎明会所蔵で重要文化財。
国広は、新刀の祖といわれ、田中信濃守と称し、九州日向飫肥城主の伊東家の家臣であった。父は旅泊と号し父の死後、号を継ぎ「旅泊庵主国広」と銘を打っている。
伊東家没落後は、諸国を流浪し、天正十八年には上野足利の足利学校にいた。
慶長四年以降は、京都一条堀川に住し、堀川物の祖となった。
秀吉の命令
石田光成に招かれて江州佐和山にいて作刀した期間がある。光成は天正十五年の島津征伐の 直後、秀吉の命令で南九州にとどまり、薩・隅・日三国の検地をしているから、この頃国広は光成に 知られ、この時はじめて在所をはなれたのであろう。国広が佐和山で鍛刀したのは天正十六七年頃 と思われる。佐和山の住と銘を切った作もあります。[新版日本刀講座]によると、彼は天正十七年 に関東に下り、翌十八年に下野の足利学校で城主長尾顕長のために、山姥切りと号する長義の刀 の写しを鍛えている。銘は「九州日向住国広作 天正十八年庚寅弐月吉日平顕長」で重文に指定さ れていて、同作中この右に出るものはないとある。
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山姥なる化け物を退治した山姥切国広